忘れられない小樽の夜

もうかなり昔のこと。
小樽で、ただぼーっと歩くことに憧れていた。
万年ぼーっとしているのに、
なぜわざわざ小樽まで行ってぼーっとする必要があったのか。
今の自分なら、そう突っ込みたくなる。
でも当時は、とにかく憧れていたのだ。
一人旅をする勇気はなかった。
運よく「北海道に行きたい」という友人がいて、
私は図々しくその計画に乗っからせてもらった。
憧れの小樽は、想像以上に心地よかった。
からりと晴れた天気も味方して
運河沿いをのんびり歩き、気の向くまま店に入り、
「これが小樽か」と、ひとり満足していた。
ただ、私はひとつ大事なことを知らなかった。
観光地は、夕刻になると一斉に店を閉める。
夕方6時。
小樽の街は示し合わせたかのようにシャッターが閉まり
見事なほど静かになった。
友人は別の場所へ出かけていて、
待ち合わせまでまだ時間がある。
ホテルへの帰り方もよくわからない。
今思えば、危機管理能力ゼロのバカ女だ。
どこかで時間をつぶす、という発想も浮かばず、
私はとりあえず小樽駅のベンチに座った。
行き交う人を眺めながら、
ガラケーで撮った写真を何度も見返していた。
(スマホなんて、まだなかった頃の話なのよ)
そのとき、目の前に女性が立った。
「長い間、ここにいますね。どうしたんですか?」
私より少し年上だろうか。
とてもかわいい雰囲気の人だった。
そのかわいい人が、かわいい声で、
見知らぬ私に話しかけている。
――私、どこかへ連れて行かれる?
人の良さそうな顔をして、
実は人身売買のブローカーなのではないか。
一瞬、本気で身構えた。
すると女性は、はっとしたように言った。
「突然話しかけてごめんなさい!」
彼女も人待ちをしていたこと。
たまたま視界に入った私のことが、なんとなく気になっていたこと。
待ち人が来られなくなったと連絡が入り、
帰ろうとしたら、まだ私がいて、
もし道に迷っているならと思って声をかけてくれたことを教えてくれた。
ブローカーではなく女神だったと判明した瞬間だった。
私は待ち合わせをしているというと
彼女は雑談をして一緒にいてくれた。
彼女は驚くほど丁寧に、私の話を聞いてくれた。
時間が遅くなり、
さすがに帰らなければならなくなった彼女は、
名残惜しそうに何度も謝った。
謝られる筋合いはないのに。
私は、心からお礼を言った。
彼女は手を振りながら、改札の向こうへ消えていった。
再びひとりになり、
ガラケーに目を落とした、そのときだった。
気配がして顔を上げると、
彼女が立っていた。
息を切らして、走って戻ってきていた。
「これ……少しでも、退屈がしのげたら」
そう言って差し出されたのは、
地域情報誌だった。
彼女はそれだけ言うと、
今度こそ本当に駆けて行ってしまった。
電車の時間だったのだと思う。
呆然としたまま、
私はその情報誌を手にしていた。
そこから、ほんのりあたたかさを感じた。
名前も知らない。
もう二度と会うこともないのかも。
それでも、あの夜の小樽を思い出すと、
必ず彼女のことも一緒に浮かぶ。
小樽の映像や写真をを見るたび
彼女のあったかい思い出がセットになって
あったかくなる。
知らない土地で、知らない人に
親切にしてもらった記憶って忘れられない。
もう私の一部みたいなもん。
私も、あの女性のように手を差し伸べられる人になりたい。
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